phoque's word

鶴は千年、亀は万年、シーラカンスは二億年。

同人界隈の言葉の使い方が気に入らない。

十代の終わりから二十代の初めにかけて、関西を拠点とするミニコミ誌で文章を書いていました。当時の自分は「ビックリハウス」とか「PUMP!」とかの常連投稿者でもあったのだけど、それ以外でも結構な量の文章を書いていたわけです。まあ内容は他愛のないエッセイ的なひとりよがりのものだったとは思うけれど。(ちなみにイラストを描くこともないではなかったけどこっちは本題に関係ないのでおいておく)

さて本題。niftyの頃の知人も、今のtwitter関連とかの知り合いも、結構な割合が腐女子だったりコミケに皆勤だったりするような環境なんですが、私がそのへんの同人界隈にあまり近寄りたくないと思うことの一つに、「言葉の使い方が気に入らない」というのがある。

たとえば最近だと、「尊い」という言葉の使い方。単に「眼福」くらいの意味でしょあれ。感動を表す言葉がインフレ起こしているような気がして、どうにもこうにも個人的には受け付けない。

で、それ以上に私が嫌で嫌で仕方ないのが、「文字書き」とか「字書き」とかいう呼び名。絵を描く人を「絵描き」と呼ぶのは当たり前(というか、もともとは「絵描き」も「画家」を指す言葉で、イラストレーターとか漫画家とかをそう呼ぶことはなかったと思うんですが、まあ制作物が「絵」なのだから「絵描き」と呼ぶのは全然間違ってない)。それに対して、文章を書く人を「文字書き」とか「字書き」と呼ぶのは、本当に許しがたいと思う。あなたたちの制作物は「文字」ではないでしょ?「文章」でしょ?だったら「文章書き」と自称しなさいよ。もしくは、もともとあった「物書き」という言葉を使えばよいではないですか。

なんでこれにこんなにこだわるのかというと、自分はカリグラフィーや装飾文字を多少齧っている、つまり制作物として「文字」を書いている人間のはしくれだからです。「文字書き」と呼ばれるべき(または「呼ばれるにふさわしい」)人がいるとするならば、それは書家であるとか、カリグラファーであるとか、ちょっと毛色はちがうけれどタイポグラファーであるとか、そういう人であるべきだと思うのです。

多分だけど、もとは自虐だったのだと思うんですよ。自分の描いてるのは「文章」と呼べるほどの大層なものではない、ちょっと書き散らした程度のものだ的な。でも、制作活動として「文字を書く」側の人間からは、自分の存在がないものとしてあるいは取るに足らないものとして扱われているように感じてしまうのです。

同人界隈ではこの「文字書き」「字書き」っていう呼び方はすっかり定着してしまっていて(自称ではなく他称として普通に使われている)、もう今更どうにもしようがないのかもしれませんが、せめて抵抗を示しておきたいと思ってこれを書きました。

(思い出したのですが、冒頭に書いたミニコミ誌とよく似たミニコミが地元にあって、そっちにも参加しようかと思っていたことがありました。違いは、私が参加していたミニコミは自筆原稿つまり自分の書いた字がそのまま印刷されるのに対して、地元のは「文字書き人」と呼ばれる担当者が清書したものが印刷されていたことです。うん、文字書きって本来そういうことだよね)

ちなみに、同人というかオタク界隈での言葉で「推し」ってやつ、あたし実はあれもすごく嫌いな言葉づかいなんです。もうこれなんか世間一般に広がっちゃったからどうしようもないと思うけど。